相棒、誕生のはなし Vol.1 — 名前はつけなくても、私たちは擬人化していた
「車に名前をつけたことはありますか?」と聞かれると、私は首を横に振る。けれど、洗車を『お風呂に入れる感覚』と呼び、遠くから家族の車に気づき、乗り換えの日には『ありがとう』と声をかけていた。名前がなくても、感情と行動の上では、私はとっくに愛車を擬人化していたのかもしれない。
「車に名前をつけたことはありますか?」と聞かれると、私は首を横に振る。けれど、洗車を『お風呂に入れる感覚』と呼び、遠くから家族の車に気づき、乗り換えの日には『ありがとう』と声をかけていた。名前がなくても、感情と行動の上では、私はとっくに愛車を擬人化していたのかもしれない。
正直に言うと、私は車に名前をつけたことがない。
数年前に手に入れた、ある国産SUV。今もよく走ってくれている一台だが、「ナナちゃん」とも「クロ」とも呼んだことはない。だから「車を擬人化していますか?」と聞かれたら、たぶん首を横に振っていたと思う。
ところが、自分のカーライフを少し丁寧に振り返ってみると、不思議なことに気づく。名前はつけていないのに、扱い方と感情のほうは、もうずっと前から擬人化していたのだ。
例えば洗車。黄砂が積もった朝や、夜通し雨に降られた翌日、ボディが薄汚れているのを見ると、なんだか落ち着かない。仕事の合間にスポンジを取り出して、泡で包んで、水で流して、最後にタオルでそっと拭き上げる。
その一連の動作を、私はいつしか「お風呂に入れる感覚」と呼ぶようになっていた。きれいに磨かれた車を眺めると、なぜかこちらまですっきりする。
駐車場で、見覚えのある形に目が留まる。色も車種も似たような車が並んでいるのに、不思議と「あれは友人の車だな」「あの一台は親戚のだ」と分かってしまう瞬間がある。
そして、乗り換えのとき。次の車に荷物を移し終えてから、私は古い愛車に小さく声をかけていた。「たくさんの思い出を一緒に作ってくれて、ありがとう」と。誰かに見られていたら少し気恥ずかしいけれど、そうしないと前に進めなかった。
長距離の出張や帰省で、見たこともない景色に出会うことがある。普段は殺風景に見えるビル街が、夜になるとびっくりするほど煌びやかで、「こんなにきれいな街だったのか」と声が漏れる。
そういうとき、決まって思う。「ここ、今度連れてきてあげたいな」「自分だけが知っている秘密の場所を見つけた気がする」と。助手席は空いている。でも、独り言の宛先は、なんとなく目の前のハンドルと、その向こうにいる愛車だった気がする。
洗ってあげたくなる。遠くから気づく。別れにありがとうを言う。景色を共有したくなる。
名前をつけていなかっただけで、私たちはとっくに愛車を擬人化していたのではないか。そう気づいた瞬間に、「相棒」という言葉が、ふっと頭の片隅で点滅し始めた。
Poitto 開発チーム